多賀城は奈良・平安時代に陸奥国府が置かれ、東北各地の城柵の中心でもありました。9世紀になると、多賀城の南門に至る南北大路と、これとほぼ直交する東西大路を軸に、100m毎に小路が造られ、碁盤の目状の道路網が都市計画にもとづいて整備されました。10世紀にはさらにその範囲が広がります。道路で区切られた区画には、国司などの上級役人の広い邸宅や、多賀城を支えてさまざまな仕事をする多数の人々の住居などが配置され、町並みが形成されていました。