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Miyagi Prefectural Research Institute of The Tagajo site

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〒985-0862 宮城県多賀城市高崎1-22-1

多賀城スコープ/関連遺跡データCONCEPT

 下伊場野窯跡群   伊治城跡  桃生城跡その2  桃生城跡その1  郡山遺跡 


下伊場野窯跡群の調査(平成5年)

 下伊場野窯跡群は、大崎市の旧松山町と旧三本木町の境界付近に所在する窯跡群です。大崎平野の南側を画する大松沢丘陵に立地し、多賀城跡からは北へ直線距離で約23kmあります。多賀城創建期の中で最も古いとされる軒丸瓦が採集され、創建期の瓦生産を解明するうえで重要と考えられたことから、平成5年に当研究所が三本木町・松山町・古窯跡研究会の協力を得て発掘調査を実施しました。遺跡はA~Cの3地点に分かれ、発掘調査したA地点は、標高30~40mの丘陵北西斜面です。


 調査の結果、3基の地下式窖窯(あながま)と1棟の竪穴建物を発見しました(写真1)。1~3号窯は約5m間隔で並んでおり、1・2号窯は主に瓦を、3号窯は瓦と須恵器を焼いていたとみられます。最も残りの良い1号窯は、全長9.0m、焼成部の最大幅が1.6mありました。
 出土した瓦には、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦があります。軒丸瓦は8葉の重弁蓮花文で、外側に凸圏線が巡る点など、多賀城創建期の中でも古い特徴がみられます(写真2)。軒平瓦の瓦当文様はいずれも手描きの二重弧文で、顎面に2本の平行沈線と、鋸歯文や波状文を描くものが見られます(写真2・3)。また、丸瓦には多賀城創建より古い7世紀末~8世紀初頭の製作技法・形態を受け継いだものが多くみられることなど、下伊場野窯跡は多賀城創建でも初期段階の瓦窯跡であることが分かりました。
 平瓦は、多賀城創建期に特徴的な「桶巻き作り」によって円筒状に形を作り、分割した後に凸型の調整台の上にのせて叩き締めています(図2)。この調整台の上には文字が陽刻状に彫り出されており、粘土に転写されて文字の圧痕が付いた平瓦が多く出土しています(写真4・5)。完全な形で出土した平瓦21点のうち、19点でこの文字が確認されており、破片も含めると90点に及びます。「今」が27点、「常」が31点、「下今」が32点あります。


  「常」は旧国名の「常陸」、「下」は「下総」または「下野」とすると、瓦の生産を負担した東国の国名を表している可能性があります。「今」は瓦の製作にかかわった集団または人物を表すことが想定されます。
 下伊場野窯跡群から約10km西にある日の出山窯跡群(色麻町)から出土した瓦にも、同じ型の文字圧痕がみられ、同一の工人集団が移動したことがうかがえます。瓦の形態・製作技法は下伊場野より日の出山のほうが新しく、窯も多数見つかっていることから、多賀城創建瓦の生産は日の出山窯跡群で最盛期を迎えたと考えられています。
 なお、下伊場野窯跡群では、ヘラで「小田郡[丸?]子部建万呂」と書かれた丸瓦も採集されており(写真6)、小田郡(現在の涌谷町周辺)の「丸子部建万呂」という人物名と推定されます。多賀城廃寺跡出土鬼瓦には、同一人物とみられる「小田建万呂」という名前が刻まれており、瓦製作に関わった集団の中で上位に位置する人であったと考えられます。

(初鹿野 博之)


伊治城跡_第1~3次調査(昭和52~54年)

伊治城と周辺の主な城柵官衙遺跡 伊治城は宮城県栗原市築館(旧築館町)城生野に所在する県内では最北の城柵で、多賀城からは北に約50km離れており、迫川の支流である一迫川と二迫川に挟まれた標高20~28mほどの河岸段丘上に立地しています。伊治城は、神護景雲元年(767)に造営され、宝亀11年(780)には国府多賀城と共に伊治公呰麻呂の乱の舞台となったことで有名な場所で、その所在地については古くから多くの研究が行われてきましたが、大正時代以降は古代の瓦が拾えることなどから旧築館町城生野付近が有力な候補地となっていました。
 当研究所では、所在地を確定させること、政庁など内部の建物の様相を明らかにすることを目的とし、昭和51年の地形図作成、昭和52年から3年間の発掘調査を行いました。
伊治城北辺の外郭線写真 3年間の調査では、北辺区画施設の土塁と大溝、竪穴住居22棟(火災によって廃絶したもの1棟)、掘立柱建物3棟、古代の土器や瓦、鉄製の武器などがみつかり、定説通りこの地が伊治城であることを強く裏付ける結果となりました。中でも、住居跡の床面から見つかった「城厨」の墨書をもつ土器は、当時「城」と呼ばれる場所がこの地にあったことを示す意味で貴重な発見となりました。
 残念ながら、中心施設である政庁や官衙的な性格を示す建物は見つけることができませんでしたが、築館町(2005年の合併後は栗原市)に引き継がれた昭和62年以降の発掘調査で政庁や遺跡の範囲などが明らかになっています。

出土した墨書土器

(廣谷 和也)


桃生城跡その2_第3~10次調査(平成6~13年)

 昭和50年(1975)の第2次調査以来となる桃生城第3次調査は、平成6年(1994)に行われ、平成13年(2001)の第10次調査まで継続して行われました。これらの調査で第2次調査まででは不確定だった遺跡の範囲や政庁域の様相などが明らかになり、政庁域の周りにも別の官衙地区があることなどが新たに判りました。

桃生城跡全体図遺跡の範囲

 東西約800m、南北約650mの不正方形の範囲が外郭区画施設で取り囲まれており、その内部北半は南北に延びる区画施設によって東西に分けられていることが判りました。区画施設には築地塀・土塁・材木塀・大溝があり、場所や地形によって構造が異なっています。また、北辺では櫓の跡も見つかっています。中央やや東寄りにある丘陵頂部の平坦面に政庁域があり、そこから谷を挟んだ西側の平坦面にも政庁とは別の官衙域が見つかっています。

政庁域

 政庁の建物は、丘陵の最も高い地点に正殿、その北約9mに正殿と柱筋を揃えた同規模の後殿、正殿の東西前面には東西の築地塀に寄せて5×2間の南北棟の東西脇殿を配置する「コの字型」の配置になっており、これらの建物は、東西約66m、南北約72mの築地塀によって区画されています。
政庁域の遺構配置図

政庁西側官衙地区

 政庁域から200mほど西に離れた平坦面に位置する建物群は、南北にのびる溝によって東西に二分されています。東側は小規模な建物、西側は比較的大規模な建物で構成されており、政庁に比べて実務的な要素が強いと考えられます。こういった建物は政庁の東側でも一棟見つかっており、他にも未調査の城内平坦面に存在するものと推定されています。

 政庁の主要な建物をはじめとして、城内の多くの建物は火災により焼失していました。出土遺物からみて火災の年代は8世紀後半頃ですが、これは文献上に出てくる宝亀5年(774)の蝦夷の攻撃時の火災の痕跡とみられ、考古学的にこの蝦夷の攻撃があったことが裏付けられました。
 なお、これら火災によって失われた建物はその後再建されないという特徴があります。桃生城は造営後15年という短い時間で多くの建物が焼失し、その後復興されることなくその役割を終えたと考えられます。
政庁空撮写真東脇殿の焼土が柱痕跡に入った柱穴の写真

(廣谷 和也)


桃生城跡その1_第1・2次調査(昭和49・50年)

桃生城と周辺の主な城柵官衙遺跡を示した図 桃生城は、宮城県石巻市(旧河北町・桃生町)に所在する古代城柵官衙遺跡の一つで、天平宝字4年(760)頃に完成し、宝亀5年(774)に蝦夷が起こした乱の舞台になった所です。
 当研究所の関連遺跡の調査はこの桃生城からスタートし、これまで計10回の発掘調査を行っています。そのうち昭和49・50年(1974・1975)に行った最初の2回の調査目的は、「桃生城はどこにあるのか?」というシンプルかつきわめて重要な疑問を解決することでした。当時桃生城の所在地については、文献に登場する「陸奥国牡鹿郡において大河を跨ぎ峻嶺を凌いで桃生城を作る」という一文から、北上川の河口付近の丘陵上にいくつかの説が提唱されていましたが、確定には至っていませんでした。
 研究所では、瓦や須恵器が採集されること、周囲に古代の土塁があるらしいことから、①の飯野新田長者森を発掘調査地としました。その結果、政庁と考えられる建物跡やその周囲をめぐる築地塀や土塁などを発見し、そこで使われた瓦や須恵器の年代が古代のものと考えられることから、この地を桃生城とすることが最も妥当であると結論づけました。
 政庁の建物配置や区画施設の範囲などいくつかの問題点は平成3年の第3次調査以降に託されますが、この最初の二年間の調査は長らく続いた桃生城の所在地を巡る論争に決着をつけるという大きな成果をあげたのでした。
桃生城の所在候補地を示した図

発見した政庁の建物の写真外郭線土塁の写真

(廣谷 和也)

郡山遺跡(写真提供:仙台市教育委員会)

 郡山遺跡は仙台中心部の南約5km、東北本線長町駅の東側に位置する、7世紀中頃から8世紀初頭頃の遺跡です。新旧2時期の官衙が見つかっており、古い方がⅠ期官衙、新しい方がⅡ期官衙と呼ばれ、Ⅱ期官衙の時期が多賀城以前の陸奥国府と考えられています。遺跡は標高10mほどの自然堤防上に立地しており、東西800m、南北900mの約60万㎡の範囲に広がっています。北側には広瀬川、南側には名取川が流れ、その合流点から約1.5km、仙台湾までは6kmほどという立地から、河川や海洋の交通路を強く意識した場所につくられた遺跡といえます。また、Ⅱ期官衙の時代には付属寺院として郡山廃寺が造営されました。
南上空から見た郡山遺跡の写真

 Ⅰ期官衙は東西約300m、南北600m以上の範囲に中枢部、倉庫群、工房群、竪穴群などが名取川と広瀬川の合流点を正面にして建てられており、材木塀や板塀で区画されています。中枢部は東西約120m、南北約92mの一本柱列もしくは板塀と、この塀に密着するように建てられた建物と中央の広場状空閑地とによって構成されています。Ⅰ期官衙の時期は7世紀中頃から末頃と考えられています。
Ⅰ期官衙中枢部の建物写真Ⅰ期官衙から出土した畿内の土器写真

Ⅰ・Ⅱ期官衙遺構模式図Ⅱ期官衙の材木塀と南門写真 Ⅱ期官衙はⅠ期官衙を取り壊し、建物の基準を真北方向に変えて新たに造営されました。その南側には付属寺院である郡山廃寺が造られ、その周囲にもいくつかの建物群が存在します。藤原京遷都の持統8年(694)年頃、都である藤原京(奈良県橿原市)をモデルに造営したものと推定されており、1辺が四町(428m)の範囲を、クリ材を立て並べた材木塀で囲み、外側には大溝を巡らせ、さらにその外側50mにも外溝を巡らせています。Ⅰ期に中枢部があった場所と一部重なる内部の中央南寄りには政庁があり、中心建物である正殿の北側には方形の石組池と石敷遺構があります。飛鳥地方に似た構造のものが見られ、蝦夷の服属儀礼に用いられたと推定されています。このⅡ期官衙は、多賀城成立の神亀元年(724)頃に廃絶したと考えられています。南門の柱写真

 郡山廃寺は遺跡の東南部、東西120m程、南北167mの材木列の塀で方形に囲まれたなかにあります。内部では講堂と僧房が見つかっており、講堂の南西には瓦葺きの金堂が、南東には塔があったと推定されています。伽藍配置は多賀城廃寺と共通しており、国府の付属寺院であったと考えられています。

 郡山遺跡や遺跡の北西にある西台畑遺跡、西側にある長町駅東遺跡など同時期の集落からは関東地方の土師器(関東系土器)が見つかっており、Ⅰ・Ⅱ期官衙の造営や維持には関東地方からの移民が多く関わっていたと推定されています。また、畿内産の土師器が出土していることや石組池の存在などは、都があった畿内との強い関連性を示しています。
Ⅱ期官衙石組池の写真Ⅱ期官衙から出土した軒丸瓦の写真

※ 掲載写真は全て仙台市教育委員会から提供されたもので、承諾を得て使用しています。Ⅰ・Ⅱ期官衙遺構模式図は郡山遺跡発掘調査報告書-総括編(1)・(2)-(仙台市文化財調査報告書第283集)を参考に当所で作成しました。

(廣谷 和也)


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