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Miyagi Prefectural Research Institute of The Tagajo site

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多賀城スコープ/所長の部屋CONCEPT

多賀城の外観2 ー石垣ー _2018年11月14日


 「石垣」と言えば近世のお城のイメージを思い浮かべますが、古代西日本の山城や東北地方の城柵遺跡でも石垣が築かれました。

 多賀城跡の発掘調査でも、外郭北辺(75次)、政庁南面(78次)、政庁南大路西側(79次)などで石垣が築かれていたことが明らかになっています。いずれも整地層や盛土の端が崩れるのを防ぐための土留め施設とみられますが、3ヶ所とも城外からみえる場所にあることから、視覚的に、石垣の重厚さが多賀城の威厳を高める効果ももたらしたと考えられます。

 使われている石は砂岩系の堆積岩で、石の積み方は横に目が通るように一段づつ積み重ねられています。中でも目立つのは、政庁南面(78次)の基底部(写真2中央)の巨石で、横1.7m、高50㎝、奥行55㎝もある大きな石が多賀城創建期の旧表土上に直接据えられていました。また、政庁南大路西側(79次)には、石を割って面を整えた石が使われていました(写真3)。

 この所見に基づいて、今年から始まる多賀城政庁南大路跡の復元事業では、大路西側の石垣を復元整備する予定です。



  写真1                           外郭北辺 築地基壇北側(第75次調査)


  写真2                            政庁南面 整地層南端(第78次調査)


  写真3                              政庁南大路 西側(第79次調査)


                                         (所長 古川一明)

多賀城の外観1ー虎落(もがり)・逆茂木(さかもぎ)ー_2018年10月11日


はじめに

 
 1971年、多賀城跡第17次発掘調査で、多賀城の外郭東門の北約100mの位置の築地塀外側でSA389柱穴群が発見された。
 『多賀城跡調査研究所年報1972』に記載されたSA389に関する初見は以下のとおりである。

「SA389はSF300築地の東に沿った直径20~30㎝の円形もしくは隅丸方形を呈する柱穴群である。南のものは地山から掘り込まれているが、北では、SF300の犬走りを一部切った浅い掘り込みがあり、これを整地した焼瓦を含む赤褐色土の上面から掘り込んでいた。従って、SA389柱穴群は第Ⅲ期以降に掘られたことがわかる。柱穴群の埋土は茶褐色土であり、一部の柱穴に直径10~15㎝位の丸柱の痕跡がみえ、何列か組み合うようであるが判然とせず、性格は不明である。」(『多賀城跡調査研究所年報1972』57ページ 宮城県多賀城跡調査研究所)

 これらの記述を整理すると以下のようにまとめられる。

〔位置〕SA389柱穴群はSF300外郭東辺築地塀跡の東側=城の外側に分布する。
〔年代〕多賀城政庁第Ⅲ期(伊治公呰麻呂事件後の復興期)以降のものである。
〔方向〕SF300外郭東辺築地塀の基壇東裾に沿う方向で柱筋が通るが、築地に直交する方向には柱筋が通らない    。列の方向はSF300築地とほぼ同じ、北で西に約30°振れた方位である。
〔分布〕柱穴の検出総数は71個。柱列は築地から外側に向かって7列認められ、列の間隔は90㎝前後。列内の柱    間も90㎝前後である。また、SF300築地塀の基壇は幅約5mであるが、柱穴群はその東裾直下から7列分    でおよそ5.5mの範囲に帯状に分布している。


柱穴群の性格
 
 SA389柱穴群は、木柱を据えた痕跡とみられる。こうした施設は虎落(もがり)・逆茂木(さかもぎ)などと呼ばれ、外敵が城壁裾に容易に近づくのを防ぐために、先の尖った杭等を建て並べた防御施設の一種とみられる。吉野ヶ里遺跡など弥生時代の環濠集落で外周の防御施設として確認されているが、古代の軍事施設である城柵遺跡での発見例としては本例が唯一であろう。
 柱穴群は、重複することなく柱痕跡の残るものも認められるなど、建て直した痕跡は確認できない。このことから、これらの柱穴群は維持補修が加えられた常設的な施設ではなく、多賀城跡の長い存続期間の中で、ある特定の期間に臨時に設置された一時的な施設と考えることができる。
 また、南北の他の調査区で同様の位置で柱穴群は検出されておらず、柱穴群が、築地の外側全域に設置されたわけでもないようである。柱穴群が発見された調査区周囲の地形をみると、地形的に平坦な場所、すなわち築地と外周の地面の高低差が少ない場所に位置していることがわかる。こうした場所は、戦略的にみて、築地際に容易に近づける場所ということであり、城を守る側からしてみると守備の難しい場所ということになる。こうした守備の脆弱な場所に限定して防御施設が設置されたのであろう。


今後の研究視点
 
 これまでの調査研究により、多賀城跡の外郭施設として築地塀・材木塀とこれに取り付く櫓の存在が確認されている。これらは、言うまでもなく、常設の施設であった。
 これに対し、SA389柱穴群は、外郭築地のさらに北側に、襲来した敵兵が築地に取り付くのを防ぐための施設として虎落・逆茂木等が設置されていたことを示している。それが、伊治公呰麻呂事件のような一時的な緊張状態に対応するための臨時的施設であったにせよ、多賀城跡が、まさに城柵として本来的な軍事機能を発揮した姿であったことを再認識させる重要な遺構なのである。


              第17次調査区(北より)築地塀を挟んで右手が城内、左手が城外


              第17次調査区(東より)築地塀を挟んで手前が城外、奥手が城内



                           (多賀城跡調査研究所 第20代所長 古川 一明)

新年度のご挨拶_2018年10月1日

 多賀城跡調査研究所所長の古川です。本年4月の就任後すでに半年が経過しておりますが、ここにあらためましてご挨拶申し上げます。「所長の部屋」の更新も2013年2月1日以来、実に5年8ヶ月ぶりと、大変ご無沙汰いたしました。

 さて、宮城県多賀城跡調査研究所は、昭和44年(1969)4月に開所して以来、来年2019年4月で創設50年を迎えます。この間、①多賀城跡発掘調査事業、②多賀城跡環境整備事業、③多賀城関連遺跡調査事業という、柱となる3つの事業を継続的に実施してまいりました。③については、東日本大震災後、震災復興のため当面の間事業を休止しておりますが、①・②については震災後も途切れることなく事業を継続しております。創設50周年の節目となる来年度は、これまでの実績を振り返り、その成果を広く一般の方々に紹介するためのイベント等も開催したいと考えております。

 時が流れ、調査や整備の指針も変化する中、基本となる史跡保存のコンセプトは堅持しつつ、これからも古代城柵官衙遺跡の調査研究と整備活用に積極的に取り組んでまいります。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。


                           (多賀城跡調査研究所 第20代所長 古川 一明)

「城下」はどこだ_2013年2月1日

 もうすぐ大震災から2年が経ちます。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに被害に遭われた方々が少しでも早く元の暮らしを取り戻せるように私たちも全力を尽くしていきたいと思います。
 さて、今回の大震災に関連して注目される貞観の地震と津波ですが、その状況と被害などを記録した文献に「忽至城下」とあり、「(津波が)たちまち城下に至る」と読まれています(註1)。私は以前に、「城下」を市川橋・山王遺跡の方格地割りがあった場所と考えていましたが、この場所では津波の痕跡は見つかってはいません(『貞観地震』2012年3月8日)。では「城下」はどこなのでしょうか。少し検討してみたいと思います。
 まず、「城」ですが、この時代陸奥国内で「城」と呼ばれていたのは多賀城と岩手県奥州市にあった胆沢城だけです。そして、この文は陸奥国が報告したものであり、同じ文中に「城」の倉庫や門、櫓などが被災したことも書かれているので、発掘調査で多くの被災状況が確認された陸奥国府である多賀城と考えて間違いないと思われます。
 次に「城下」ですが、宝亀11(780)年の伊治公呰麻呂の乱の記事に「城下百姓競入欲保城中(城下の百姓が多賀城内に入って城を守ろうとした)」とあります(註2)。この頃はまだ方格地割りは成立していないので、この文では「城下」が方格地割りを指していないことは明らかであり、もう少し広い範囲を意味していた可能性があります。したがって、貞観地震の記事の「城下」も単純に多賀城のすぐ近くの場所と限定するわけにはいかないと思います。
 「城下」はどこなのでしょうか。2月23・24日に第39回古代城柵官衙遺跡検討会が東北歴史博物館で開催されます。今回は『古代東北の城柵と災害』というテーマで行い、そのなかで「城下」についても詳しい検討がなされると思います。興味のある方は是非ご参加下さい。
多賀城跡周辺の空撮写真(南から)

(註1)『日本三代実録』貞観11(869)年5月26日癸未条
陸奥國地大震動 (中略) 城(郭)倉庫 門櫓墻壁 頽落顛覆 不知其數 海口哮吼 聲似雷霆 驚涛涌潮 泝洄漲長 忽至城下
(註2)『続日本記』宝亀11(780)年3月丁亥条
陸奥國上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反 (中略) 護送多賀城其城久年国司治所兵器粮蓄不可勝計 城下百姓競入欲保城中

(所長 佐藤 則之)


冬の発掘調査_2012年12月21日

 寒くなってきました。季節が変わると私たちの仕事の内容も変わります。宮城県では原則として冬期間は発掘調査をしていません。それは決して寒いからではなく、積雪があったり、地面が凍ったりして調査効率が著しく悪いからです。その一方で、発掘調査を行うと必ず調査報告書を作成して、調査成果を公表し、見つかった遺構や遺物の歴史的な位置づけをしなければなりません。そのため、冬期間は報告書の作成にあたります。春~秋の期間に貴重な遺物や遺構を発見すると、冬の仕事量が非常に多くなり、大変です。当研究所でも現在は今年発掘調査した政庁正殿と五万崎地区の報告書の作成にあたっており、大変な冬を過ごそうとしています。
 一方、工事の途中で遺跡が発見されたり、川の中を調査するので渇水期の冬しか発掘できないなどの様々な事情からどうしても冬に発掘調査を行わなければならないこともあります。私が経験した印象に残っている冬の調査は、県北のとある遺跡の調査です。周囲には雪が積もっており、見つかった竪穴住居跡の周りだけ地面がでていました。写真撮影のため周辺をきれいにしていると住居の内部に雪解け水が浸みだしてきました。そこで、スポンジで吸い取って少し離れた場所で絞って水を捨てたところ、その水がたちまち氷になっていきました。その時は地面がかなり冷えているんだろうなと思っていましたが、後になってこれは「過冷却」ではないかと思いました。「過冷却」とは例えば水が0℃以下になっても凍らない状態のことで、衝撃を与えると一瞬にして氷に変化しますので、テレビや理科系のイベントなどでご覧になった方も多いと思います(註)。特殊な条件がそろわないとできない理科の実験が自然にできる冬の発掘調査、皆さんはやってみたいですか?
多賀城政庁東楼跡の調査風景(1969年)

 (註)http://www.ngk.co.jp/site/no172/content.htmを参照して下さい。

(所長 佐藤 則之)


東へ西へ_2012年11月18日

 多賀城は当時の都(奈良)から見ると東方にあったと考えられており、多賀城までの山沿いの国は東山道諸国(信濃や下野など)、海沿いの国は東海道諸国(駿河や常陸など)と呼ばれていました。一方、大宰府は都の西方にあったと考えられており、大宰府が管轄した地域(現在の九州全域)は西海道諸国と呼ばれていました。今回は、多賀城と大宰府両者と関係し、日本列島を横断した経験を持つ人物をご紹介します。
 最初は大野東人です。東人は神亀元(724)年に多賀城を創建し、天平9(737)年には陸奥から出羽への直路を造ろうと遠征しているのでこの頃まで多賀城勤務であったことは確実です。天平11(739)年には、陸奥国按擦使兼鎮守府将軍に大養德(大和)守をも兼ねていましたが参議に任じられ、この頃は都に戻っていたと思われます。翌天平12(740)年、大宰府の次官であった藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ 後述する藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長男)が反乱を起こすと、持節大将軍(政府軍の司令長官)として九州に派遣され、乱を鎮圧します。なお、このときの板櫃川(北九州市)をはさんでの戦闘にはが用いられたと文献に残っています。
 次は藤原朝獦で、朝獦は天平宝字6(762)年に多賀城の修造を行ったほかに、秋田城(秋田県秋田市)の改修や雄勝城(秋田県内と推定されていますが場所は不明)、桃生城の造営なども行っています。その一方で、外交官としても有能であったらしく、時の権力者であった父である藤原仲麻呂と中央政界でも活動していました。当時は唐や新羅、渤海などとの国際情勢が緊迫しており、特に新羅との関係は悪化していたので、天平宝字4(760)年には新羅から派遣された使者を大宰府まで出かけていって詰問しています。
 大伴家持は薩摩国(鹿児島県)の長官や大宰府の次官を歴任し、キャリアの最晩年に陸奥国に赴任してきたのは皆さんご存じのことと思います。
 ところで、多賀城が創建された神亀元年には海道の蝦夷が反乱を起こしています。反乱に際し持節大将軍として都から派遣され、大野東人と共に鎮圧にあたった藤原宇合は、大化の改新の中心メンバーであった中臣(藤原)鎌足の孫で、後に大宰府の長官になっています。『懐風藻』という漢詩集に

往歳東山役 今年西海行 行人一生裏 幾度倦辺兵

という宇合の詩があり、東奔西走する自分を嘆いている様子が窺われます。「すまじきものは宮仕え」と思ったのでしょうか。

(所長 佐藤 則之)


柱穴_2012年9月21日

多賀城跡外郭東門の柱穴写真 発掘調査では多くの柱穴が見つかります。今年度の多賀城跡の政庁正殿の調査でも第Ⅰ期の大きな柱穴が見つかっています。今回は柱穴について思ったことを書いてみます。
 多賀城跡の柱穴は大部分が方形であり、陸奥国内の城柵・官衙遺跡や集落内の掘立柱建物の柱穴も方形です。一方、竪穴住居の柱穴は円形や楕円形であることから、律令時代の陸奥国には掘立柱建物の柱穴を方形に掘るという「決まりごと」があったのかもしれません。なお、柱穴の中には、角は直角で垂直に几帳面に掘られたものや斜めに掘られ深くなるに従って柱穴が小さくなるものなどがあり、掘った人の性格が反映したと思わせるものもあります。
 大きさは、多賀城では、一辺が1.5m前後の超大形のもの、1m前後の大形のもの、0.7m前後の中形のもの、0.5m前後の小形のものなどがあります。このうち、超大型のものは政庁の正殿や脇殿、南門、南門前殿、外郭南門、東門、西門などの柱穴であり、主要な建物に限定されています。これらには直径が40~50㎝もある太い柱が使われており、必然的に柱穴も大きくなったと思われます。
 ところで、延喜式と呼ばれる平安時代の法典には「掘開埴土一人一日立方五尺。堅埴減一尺」とあり、瓦焼成用の粘土(埴土)を掘る人夫は一人で縦・横・深さ五尺(1.5m)の穴を掘るべきこと、土が硬い場合は同四尺(1.2m)と決められています。これを参考にすると、柱穴は粘土よりは堅い地面に掘られていますが、超大型の柱穴でも人夫一人が一日で掘ったと推定されます。前述の、掘った人の性格を彷彿とさせる柱穴はこういった事情によるものなのかもしれません。

(所長 佐藤 則之)


十和田火山の噴火-平安時代のもう一つの天災-_2012年8月20日

窯跡を覆うように堆積した十和田火山灰の写真(色麻町日の出山窯跡群) 発掘調査をしていると、黒い堆積土の中に真っ白な層が見えることがよくあります。これは土ではなく火山灰で、十和田火山の噴火によるものです。十和田火山は青森県と秋田県の県境にあり、十和田湖は噴火によって形成された湖です。何回か爆発的な大噴火を起こしていますが、最後の大噴火は平安時代の噴火で、このときの火山灰は福島県を除く東北各地の発掘調査で見つかっており、過去2000年間では国内最大級の噴火といわれています(註1)。
 この噴火の年代は、考古学的には、承平4年(934)の陸奥国分寺の塔焼失より古く、火山灰層の直上に焼土層があることから両者の年代は近いと推定され、10世紀前半頃と考えられています。また、仙台市赤生津遺跡では火山灰層中から昆虫が見つかり、噴火の季節は夏であった可能性が推定されています。
 一方、『扶桑略記』という書物に延喜15年7月13日(915年8月26日)に出羽国に灰が降り桑が枯れたという記事があります。この頃鳥海山など他の火山が活動したことが確かめられないことやこの記事を十和田火山の噴火と考えても考古学的知見とは矛盾しないことから、噴火は915年と考える説が有力です。
 噴火は当時の社会に甚大な被害を与えました。噴源に近い秋田県北秋田市胡桃館遺跡では、噴火によって発生した泥流で埋没した当時の建物が建ったままで発見され、近隣の集落も同様に埋没してしまったと推定されています。また、桑の被害が報告されていますが、桑だけではなく多くの農作物がその年は収穫できなかったと思われます。それだけではなく、水田や畑が火山灰で覆われ復旧に多大の労力が必要であったことも推測されます。発掘調査では、火山灰で覆われてその後耕作されなかった水田も時々見つかっており、仙台市赤生津遺跡でも火山灰堆積後に水田は放棄されていました。
 一方、被害にあった当時の人々には大変申し訳ないのですが、火山灰は現代の発掘調査では役に立つ優れものです。遺構が火山灰に覆われていたり、埋没していく途中に火山灰が入っていれば、その遺構は915年より古いと考えられ、火山灰層を壊していれば915年より新しいと考えられます。さらに、土器などの遺物の年代を決定したり、火山灰をキーとして遠く離れた東北各地の土器の比較・検討にも役立っています。
 貞観地震からおよそ50年後に東北地方の大部分に大きな被害をもたらした十和田火山の噴火が起こりました。当時の人々は災害に負けることなくそのたびに復興・復旧してきました。私たちも復興・復旧に向けて着実に前進していきましょう。

(註1)過去1万年まで範囲を広げると、約7300年前の鹿児島県屋久島付近を噴源とする噴火は日本全土に火山灰を降らせ、特に九州の縄文人に大打撃を与えました。
参考資料:姫路科学館発行PDFファイル「火山その2 九州から飛んできた火山灰2」科学の眼№405
http://www.city.himeji.lg.jp/atom/wadai/manako/405_e.pdf

(所長 佐藤 則之)


_2012年6月15日

 栗原市伊治城跡で弩(ど)の発射装置(機と呼ばれています)が見つかりました。実物の発見例としては日本初であり、現時点では唯一のもので、大変重要な資料です。私は、この弩の報告書作成に携わったのでここで簡単にご紹介することにします。
 弩は現代ではクロスボウと呼ばれており、発射台と発射装置がついた弓です(註1)。スイスの英雄ウィリアム・テルが息子の頭の上のリンゴを射抜いた時使用したことでご存じの方も多いと思います。
 中国では戦国時代(紀元前4世紀頃)から盛んに使われており、唐(618年~907年)や宋(960年~1279年)の時代まで主力兵器でした。
 日本では、文献上では第一級の兵器とされており、大宰府や多賀城などに専門職である弩師を配置したことが記されていました。しかし、実物が発見されず、その実態は不明のままでした。伊治城跡出土の弩はこういった文献の記述を裏付けました。また、律令政府が蝦夷との紛争の最前線である伊治城跡に配備した兵器であり、実際に戦闘に使われた可能性が高いと考えられます。
 ところで、伊治城跡の弩の発見は平成11年に公表されました。同じ年の少し前に、島根県姫原西遺跡で弥生時代の弩の発射台(臂と呼ばれています)が見つかったことが発表されました。これは全体に華奢であることから実用品ではなく祭祀に使用されたと推定されています。また、前年には秋田県秋田城跡で「弩」と墨書された土器が見つかり、弩に関する施設もしくは人物が秋田城跡に実際に存在した可能性が推測されます。国内で弩に関する資料は上記だけであり(註2)、同時期に集中していることは偶然でしょうが興味深いことです。第二次の弩発見ブームは来るのでしょうか?
弩の発射装置写真(栗原市教育委員会蔵)弩を構えた兵士のイラスト

(註1)復元された弩は福島県埋蔵文化財センター白河館「まほろん」で展示されています。
「まほろん」ホームページへ→http://www.mahoron.fks.ed.jp/index.htm

(註2)弩で使用する弥生時代の銅製の鏃が西日本各地で見つかっていますが、鏡や武器などの青銅製品を作るための原料として輸入された可能性があり、弩が存在したとは断定できません。

(所長 佐藤 則之)


多賀城の「トイレ」_2012年5月15日

 発掘調査ではたくさんの穴が見つかります。近年、その穴の中にトイレとして掘られたものがあることがわかり、トイレ遺構と呼ばれています。形状は様々ですが、穴の中の土からはちゅう木(註1)やハエの蛹、ウリなどの種(註2)が見つかり、これらはトイレ遺構判別の「三種の神器」といわれています。また、トイレ遺構から見つかる寄生虫卵(註3)や花粉などから当時の人々の食生活が復元できます。
 トイレ遺構は、古代では、藤原京や平城京などの都の有力な貴族の屋敷や福岡県鴻臚館跡、秋田県秋田城跡(註4)のような公的な機関が置かれた場所、寺院などで見つかっています。中世になると、地方の武士階級や有力者の屋敷でも見つかり、しだいに一般化していくようです。宮城県内では村田町沼田鶏権現遺跡や松島町瑞巌寺境内遺跡(註5)で見つかっています。
 ところで、多賀城跡では、金堀地区で見つかったSK512という南北に細長い穴がトイレ遺構ではないかと推定されています。穴の中の土からはウリ類の種が多量に見つかっています。昭和48年(1973)の調査時には何の遺構かわかりませんでしたが、トイレ遺構の調査例の増加によってSK512もトイレ遺構ではないかと推定されるようになりました。
 さらに想像をたくましくすると、このSK512と周囲にある柱穴を組み合わせてみると、塀で囲まれた、個室を持つ立派なトイレだったと考えることも可能です。そして、個室からは樋などを伝ってSK512に流下させる水洗式だったと想定することもできます。
 多賀城跡の発掘調査は今後も続きます。さらなるトイレ遺構の発見に期待しましょう。
金堀地区で見つかったSK512(トイレ遺構)の写真金堀地区トイレ遺構平面図

(註1)細長い木製品で、当時のトイレットペーパーです。
参考:柳之御所遺跡トイレ遺構の解説(岩手県平泉遺跡群調査事務所)へ→http://www.pref.iwate.jp/~hp0909/koto/seika/ikouibu/ikou.htm

(註2)食べたものが消化されずに排泄されたもので、私たちも時々経験します。

(註3)牛、豚、コイやフナなどの淡水魚、鮎、野菜それぞれに特有の寄生虫がおり、寄生虫卵から何を食べたかがわかります。また、寄生虫卵は便とともに排泄されるので、見つかった穴がトイレ遺構である有力な証拠となります。

(註4)秋田城跡で復元整備された古代水洗厠舎の紹介ページ(秋田市秋田城跡調査事務所)へ→http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Akimarokun/Akimaro-47.htm

(註5)報告書では平安時代とされていますが、中世のものの可能性が高いと思います。

(所長 佐藤 則之)


政庁正殿の調査_2012年4月27日

 政庁正殿はいうまでもなく多賀城で最も重要な建物で、重要な儀式や政務が行われました。当然最も壮麗で、大規模な建物であったと思われます。
 正殿は過去2回調査されています。1回目は昭和38年の第1次調査で、礎石建物と基壇の様子が明らかになりました。2回目は昭和44年の第6次調査で、新たに掘立柱建物が見つかり、礎石建物の基壇も改修されていることがわかりました。したがって、正殿は掘立柱建物から礎石建物に建て替えられ、礎石建物は基壇が改修されていることから1度建て替えられていることが推定され、Ⅰ期(掘立柱建物)→Ⅱ期(礎石建物)→Ⅲ期(礎石建物)の変遷が明らかにされています。
 ところで、上記の調査では正殿全体を調査したわけではなく、重要な正殿をできるだけ良好な状態で保存しておくために、部分的にしか調査していませんでした。今回、初めて全体を調査しますが、やはり、保存を最優先に考えて調査したいと思っています。
 なお、多賀城内の主要な建物は伊治公呰麻呂の叛乱によって焼かれたことが明らかになっていますが、正殿が焼けたかどうかは確かめられていませんでした。今回はこういったことも確かめられるかもしれないと期待しています。
政庁正殿の平面図

(所長 佐藤 則之)


新年度_2012年4月2日

 新年度になりました。人事異動で4月からは新たなメンバーが仲間入りしました。慣れないことが多く大変かと思いますが頑張ってもらいたいと思います。
 さて、今年度は当面震災復旧関連の事業を行う予定です。発掘調査は政庁正殿の調査で、震災の影響で基壇上面の舗装が傷んだため、舗装し直すのに伴う調査で、夏頃まで行います。正殿全体が調査されるのは今回が初めてですので、是非、現地説明会等で実際にご覧になっていただきたいと思います。また、途中経過もこのホームページで随時お知らせします。同時進行で五万崎地区の調査を予定しています。
 環境整備事業では、正殿、南門・東門のトイレ、作貫地区の覆屋、柏木遺跡の園路や側溝などの復旧事業を行い、さらに、政庁後殿の平面表示も予定通り実施するなど、多くの事業を行います。
 この他に、震災復興事業に伴い宮城県教育委員会が行う発掘調査を支援するために職員1名を派遣します。
 今年度は例年に比べるとかなり仕事量が多いですが、頑張ってやり遂げたいと思っています。皆様のご協力、ご声援をよろしくお願いいたします。

(所長 佐藤 則之)


貞観地震_2012年3月8日

 東日本大震災から1年が経とうとしています。被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。それとともに、不自由な生活を余儀なくされている方々に1日でも早く平穏な生活が戻るように、微力ながら当研究所も頑張っていきたいと思っています。
 さて、今回の大震災と比較される貞観地震ですが、多賀城跡の建物や塀が壊れ、「城下」に津波が押し寄せたことを始めとして陸奥国内に大きな被害を与えたことが文献に残っています。この貞観地震が、考古学的にはどのように捉えられているのか、多賀城跡と「城下」である山王・市川橋遺跡について現状をまとめてみます。
 まず、地割れや噴砂、地層のずれなどの地震の痕跡を発掘調査ではっきりと確認した例はありません。山王遺跡では、河川跡の堆積土中に噴砂の痕跡が見つかり、時期が9世紀後半頃と考えられることから貞観地震の痕跡の可能性も指摘されています。今後、このような痕跡が多く見つかれば貞観地震の痕跡である可能性がより高まるのではないかと思います。なお、以前に紹介した「見つからなかった柱穴」もこの地震による噴砂の結果である可能性があります。
 次に津波についてですが、これもはっきりと確認された例はありません。以前、市川橋遺跡の現地説明会で津波の痕跡が確認されたと発表されましたが、津波とは断定できず正式報告書には記載されませんでした。発掘調査や現地説明会時点での見解は、報告書作成時の詳細な検討の結果変更される場合があるので注意が必要です。
 なお、上記の山王遺跡の河川跡の例では、噴砂直後の粗砂層を「津波や洪水等の自然災害によって形成された可能性が高い」と考えています。しかし、津波によって運ばれる砂は「均質な」「中~細粒」砂(註)ですので、この粗砂層は少なくとも津波によるものではないと考えられます。
 以上のように、多賀城周辺では貞観地震と津波の痕跡ははっきりとは確認されていません。貞観地震は年代が明らかなので、痕跡を確認し、遺構や遺物との関係が明らかになれば多賀城跡やその周辺を解明する上で貴重な情報が得られます。今後の発掘調査ではこういった視点からの検討も必要不可欠であると思います。
 なお、多賀城が地震後に立派に再建されたことは発掘調査で明らかになっています。また、「城下」も地震前よりも町並みが拡大し、賑やかになったことが明らかになっています。平安時代の人々も頑張って復興しました。私たちも頑張りましょう。
貞観地震後に再建された政庁第Ⅳ期のイメージ図第Ⅳ期の瓦写真

(註) 仙台新港そばの仙台市沼向遺跡では貞観地震による津波の堆積層が見つかっており、均質な細かい砂の層でした。また、津波の堆積物は海岸寄りは砂ですが、内陸部では泥質になると指摘されており、山王・市川橋遺跡付近では砂ではなかった可能性もあります。

以下のリンク先を参照して下さい。

http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/genchi-kutsu/index.html

http://www.dcrc.tohoku.ac.jp/surveys/20110311/docs/20110610_1-5_matsumoto.pdf

(所長 佐藤 則之)


古代城柵官衙遺跡検討会_2012年1月4日

 第38回古代城柵官衙遺跡検討会が平成24年2月25・26日に東北歴史博物館で行われます。今回は多賀城市が行う多賀城外郭南門復元にあわせて「城柵官衙遺跡の築地と門の復元」というテーマで行います。また、併せて「東日本大震災と遺跡」というテーマで震災と遺跡との関わり、復興への課題などについて考えてみたいと思います。研究者だけではなく、多くの一般の方々のご参加をお待ちしています。
 ところで、第1回の検討会は東北歴史資料館(註)で1975年1月11・12日に行われ、以後、毎年1回、東北地方の各都市で開催されてきました。当初は東北地方の城柵官衙遺跡の発掘調査の担当者が集まって情報交換をしたり、調査成果を相互に検討することを目的としていましたが、近年、他地域の官衙遺跡研究者や文献史学の研究者の参加も多くなっており、様々な面からの検討や学際的な情報交換がなされるようになってきています。
 この検討会を計画し、具体化した、当時の多賀城跡研究所長の岡田茂弘さんのお話によると、1974年秋に東北歴史資料館がオープンし、講堂を利用する行事の開催が可能になったことや、すでに発掘調査を開始していた多賀城跡に続いて、1971年には山形県城輪柵跡、1972年には秋田県秋田城跡と福島県関和久遺跡、1974年には岩手県胆沢城跡と秋田県払田柵跡の発掘調査が開始され、情報交換や調査成果の比較検討が必要となったことから、1975年に第1回古代城柵官衙遺跡検討会が開催されたとのことです。
 多賀城跡を始めとする古代城柵・官衙遺跡の調査研究は東北地方の古代史の解明に大きく寄与してきました。そして、古代城柵官衙遺跡検討会も調査方法のレベルアップや各遺跡の歴史的位置づけを明らかにするなど重要な役割を果たしてきました。この会は、会費や会則はなく、会長などの役員もいない、その日に参加した人が会員になるという1回ごとに終結する回ですが、今後とも長く続けていきたいと思っています。 

(註) 現在の東北歴史博物館の前身の施設で、展示室、資料収蔵庫、研究室のほかに200名程度が入れる講堂がありました。多賀城跡調査研究所はプレハブの建物から資料館内に移転しました。

(所長 佐藤 則之)


新年のご挨拶_2012年1月1日

 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。昨年の震災に際しては日本のみならず、世界中の方々から暖かいお力添えを賜り、心から厚く御礼を申し上げます。一日も早い復興を目指して、少しでも自分たちにできる事を続けてまいりたいと思っております。
 さて、当研究所では、平成16年から政庁の再整備に伴う発掘調査を実施し、第Ⅱ期の脇殿や楼の存在を明らかにするなど大きな成果を上げました。こうした成果は一昨年の多賀城跡発掘調査50周年記念事業であるフォーラムや特別展、シンポジウムなどでお知らせしてきましたので、多くの方がご存じかと思います。
 今年は政庁正殿の発掘調査を急遽実施することとしました。正殿の全面調査は初めてですが、多賀城の歴史をリニューアルするような新たな成果を目指して頑張りたいと思います。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
新しい成果に基づいてリニューアルされた政庁模型写真

(所長 佐藤 則之)


望年会_2011年12月12日

宴会用の土器写真 12月に入り寒さも厳しく、年末をひかえて気ぜわしくもなってきました。また、この時期は忘年会のシーズンでもありますが、今年からは「忘」年会ではなくて「望」年会にするという方が多いようです。来年はよい年であることを望む会とでもいう意味でしょうか。また、今年あった東日本大震災を忘れてはいけないという意味もあるのかもしれません。
 ところで、私は発掘調査という考古学的手法で、過去にあった、忘れ去られたいろいろな事象を明らかにしようとしてきました。そんな私にとっては、例え嫌なことではあってもその年の出来事を忘れようとする「忘」年会は不適切な用語であったと反省しました。そこで、私も今年からは「望」年会にしようと思います。「望」年会ならどんなに盛大に行なってもどこからも苦情はこないと思います。
 なお、当研究所の事業は、一部計画の変更はあったものの、発掘調査や環境整備事業は順調に進捗しております。これも皆様の応援や所員のがんばりによるものと感謝いたしております。そして、来年は本当によい年になるように頑張っていきたいと思います。

(所長 佐藤 則之)


富壽神寳_2011年11月1日

第37次調査で大溝から出土した富壽神寳の写真 1980年の秋も深まった快晴のある日、研究所1年生だった私は発掘現場の、ほぼ掘り上がった大溝の中にいました。底面近くは湧水が激しく、移植ゴテでは掘れなかったため、取り残した遺物はないかと水の中に手を入れて手探りで遺物を探し、最終チェックをしていました。土器が数点見つかっただけで、もう遺物はないなと思っていたところ、薄い、小さな、平たいものをつかみました。持ち上げてみると、黄銅色に光ったコインで、最初は誰かが落とした五円玉かと思いましたが、どうも違うようです。研究所に持ち帰って、先輩方と調べてみると、弘仁9(818)年に造られた富壽神寳(ふじゅしんぽう)であることがわかりました。この富壽神寳は、研究所が発掘した最初の古代のコインであり、その後も見つかっていないことから現在でも唯一のものです(註1)。なお、発見当初はピカピカ光っていた富壽神寳ですが、あっという間に酸化して黒くなってしまいました。あの輝きを見ることができたのは発見者へのご褒美だと思っています。
 ところで、この富壽神寳はなぜ大溝の底に沈んでいたのでしょうか。当時の都や周辺の状況を見ると、大溝や運河、道路側溝、河川などの水路から多量のコインが発見されています。同時にミニチュア土器や人面墨書土器などの祭祀遺物も見つかることから、コインも祭祀に用いられたと推定されています。富壽神寳が見つかった大溝からは祭祀に用いられた木簡が発見されており、この富壽神寳も祭祀に用いられた可能性が高いと思います(註2)。
 なお、この時の第37次調査区は、多賀城外の、西南に広がる水田の中にあり、掘立柱建物や井戸、大溝、道路などが見つかりました。多賀城外に道路で区画された市街地が広がっていたという全国的に見ても重要な成果が得られる端緒となった調査でした。

(註1)その後の多賀城市教育委員会による城外の調査では古代のコインが何枚か見つかっています。多賀城内からは見つかっていません。

(註2)具体的には、人々の罪や穢れを外界に流し去ったり、多賀城内に疫病神が進入するのを阻止したりするための祭祀具として使われた、もしくは、多賀城から都へ行く旅行者が道中の無事を祈って、あるいは、多賀城に無事到着したことを感謝して投げ入れたことなどが考えられます。もちろん、慌て者が落とした、あるいは、酔っ払いとともに転落した可能性も否定できません。

(所長 佐藤 則之)


現地説明会_2011年10月3日

 今年度の発掘調査の現地説明会が10月15日に行われます(詳細はこちら)。多くの方のご参加をお待ちいたしております。
 現地説明会では、実際の遺構を前にして、調査員が遺構の持つ意味や性格、調査の成果を分かりやすく説明します。また、発掘調査の現場は埋め戻されてしまうので、実際に見ることができる唯一のチャンスです。映像や文章ではなかなか臨場感が伝わりませんので、是非現地にお出かけ下さい。
 多賀城跡では、1969年(昭和44年)9月27日に最初の現地説明会が行われました。これは、当研究所が実施した最初の調査時であり、以後毎年実施してきました。発掘調査の成果を地元の方々に知ってもらい、多賀城跡の保護・保存にご理解をいただくために実施したと、初代の多賀城跡調査研究所長である岡田茂弘さんに伺ったことがあります。
 なお、このときの現地説明会が宮城県で行われた最初の現地説明会ではないかということも同時に伺いました。これ以降、多くの現地説明会が行われ、貴重な成果や重大な発見が公開されるたびに、多くの方々の参加があったことは皆さんご存じのことと思います。
近年の多賀城跡発掘調査現地説明会の様子

(所長 佐藤 則之)


見えない柱穴が見えた?謎_2011年9月13日

はっきりと見える柱穴の断面写真 前回は見えなかった柱穴について書いたので、今回は存在しない柱穴がたくさんあると主張されて困った体験を書きます。
 かなり以前の、とある発掘調査現場でのことです。
調査員「小さな柱穴が見つかりました。」
私「で、組むの?」(組み合って掘立柱建物になるのか?)
調査員「いや、組みません。」
私「わかりにくい柱穴だな。人間が掘って埋めた穴ならもっとわかりやすいはずだぞ。」
などといいながら「柱穴」とその周辺をきれいに削ってみました。
私「やっぱり地山(自然の地盤)だろ。柱穴なんて見えないぞ。」
調査員「ええー、あると思うんですが。」
他にも調査員がいたので聞いてみるとあるという意見でした。これでは埒があかないので翌週ちょっと強面の先輩と一緒に現場に行きました。
私「どうですか?」
先輩「地山。」
 やはり地山でした。では、調査員たちに見えた「柱穴」は何だったのでしょうか。おそらく、地面にある微妙な違いを「柱穴」と誤認したのではないかと思います。地面をきれいに削るとくっきりとした違いから微妙な違いまでたくさんの違いが見えます。その中から人間が掘った遺構を、経験や知識、カンまで総動員して見つけるのが発掘調査です。このとき、先入観や思い込みは失敗の原因になるという貴重な体験でした。
 昨年(2010)、奈良県藤原宮跡でも柱穴じゃないものを柱穴と誤認して建物を推定していたことがニュースになりました。いつでも、どこでも、誰にでも起こりうることなので十分に気をつけていこうと思います。

 ※この文章は事実に基づいていますが、会話の部分は正確ではありません。

(所長 佐藤 則之)


見つからなかった柱穴の謎_2011年8月10日

山王遺跡八幡地区の掘立柱建物跡とその柱穴 今から20年以上も前のことです。私は多賀城跡の南前面に広がる山王遺跡で発掘調査をしていました。そこで1棟の平安時代の掘立柱建物を見つけたのですが、1カ所だけどうしても柱穴が見つかりませんでした。山王遺跡は自然堤防上の遺跡なので地面は黄褐色の均質なシルトなのですが、あるべき柱穴が見えない場所には砂や小砂利が堆積していました。その付近を深く掘り下げたり、断ち割ったりしましたが結局わかりませんでした。他の調査員も同じでした。そこで、砂や小砂利に掘られた柱穴は見えにくく、あるはずだが自分たちの能力では見つけられないと当時は考えました。
 ところが、3月の地震の後に、あちこちにある液状化現象による噴砂を見て、ふとこの柱穴のことを思い出しました。そして、あの砂や小砂利の堆積した場所は噴砂の痕跡ではなかったのか、だとすれば柱穴は噴砂で壊されていて見えなくて当然だったのではないかと思いました。今となってはこの思い付きを確かめる術はありませんが、この思いつきのほうが見えなかった理由を合理的に説明できるような気がします。謎が解明できたようで非常にスッキリとしました。
 以下はこの思い付きが正しいと仮定した場合の個人的な思いです。地震の年代は平安時代の建物跡より新しく、869年におきた貞観の大地震の可能性もあります。多賀城跡周辺ではこれまで貞観の大地震や津波の確実な痕跡は確認されていませんが、もしかするとこの柱穴の例のようにその情報を見落としていた可能性もあります。今後は発掘調査で得られる情報を余すところなくキャッチして、遺跡や遺構の理解に役立てていきたいと思います。

(所長 佐藤 則之)


外郭南辺の問題点_2011年7月11日

外郭南門と南辺の位置を示した図 外郭南辺には、従来から考えられてきた外側のものと近年存在が考えられるようになった内側のものとがあります。外側のものは第Ⅱ期には確実に存在し、多賀城廃絶まで存続したと考えられています。内側のものは第Ⅰ期の可能性が考えられています。
 問題はこの両者の前後関係で、状況からは第Ⅰ期が内側で、第Ⅱ期に外側に移動したと考えるのが妥当と思われます。さらに、外側の築地塀建設時に埋め戻された横穴墓の土器の一部が8世紀中頃以降のものである可能性が指摘され(註)、外側の建設時期が多賀城の創建頃まで遡らないことが指摘されています。一方、第34次調査では外側のものに第Ⅱ期より古い築地塀の存在が指摘されており、両者が同時に存在した可能性や第Ⅰ期の途中で移動した可能性も残されています。
 ところで、内側のものには掘立柱式の門、外側のものには礎石式の門が開かれていました。政庁では第Ⅱ期に建物が掘立柱式から礎石式に変わっており、第Ⅱ期に外側に移動したと推定した場合の門の変化と同じです。昨年明らかになった外郭東門も第Ⅱ期に掘立柱式から礎石式に変わっており、門の検討からも第Ⅱ期に外側に移動した可能性が高いように思われます。
 一方、内側の門の南側では第Ⅰ期の道路が発見されています。第Ⅱ期に南辺が外側に移動したと考えた場合、この部分は多賀城外となります。城外の道路は現在までのところ第Ⅲ期以降のものしか見つかっておらず、この場所が特殊な状況を示していることになります。
 当研究所ではこのような問題点について現在検討中です。二年後くらいを目途に一定の成果を出すように頑張っていきたいと思っています。

 (註)築地塀建設時に横穴墓の改葬が行われ、その墓前祭に使用されたと推定されています。

(所長 佐藤 則之)


新たな一歩_2011年7月1日

 多賀城跡の発掘調査は昨年50周年を迎えました。当初は宮城県教育委員会と多賀城町(当時)、河北文化事業団の共催で発掘調査が行われ、昭和44年以降は当研究所が調査を実施してきました。長年の継続的な発掘調査や研究によって多賀城の様々な姿が明らかとなり、東北古代史の解明に大きく寄与してきたことは皆さんご存じのことと思います。
 今年は発掘開始51年目、新たな半世紀への最初の年です。今まで先輩諸氏が積み上げてきた以上に、より多くの成果を得られるように所員とともに頑張っていきたいと思っておりますので、御指導・御支援を賜りますようよろしくお願いいたします。
 さて、今年度は、外郭南辺の検討を目的として、五万崎地区の発掘調査を予定しています。外郭南辺は近年の知見からⅠ期とⅡ期以降では場所を変えている可能性が考えられています。今回はそれぞれの西側延長上を調査しますので、大きな成果が得られるものと期待しています。秋の現地説明会を楽しみにお待ち下さい。
第83次調査地点を示した図

(所長 佐藤 則之)


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