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Miyagi Prefectural Research Institute of The Tagajo site

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多賀城研の仕事/宮城県内の城柵官衙遺跡CONCEPT

郡山遺跡(仙台市)

 郡山遺跡は仙台中心部の南約5km、東北本線長町駅の東側に位置する、7世紀中頃から8世紀初頭頃の遺跡です。新旧2時期の官衙が見つかっており、古い方がⅠ期官衙、新しい方がⅡ期官衙と呼ばれ、Ⅱ期官衙の時期が多賀城以前の陸奥国府と考えられています。遺跡は標高10mほどの自然堤防上に立地しており、東西800m、南北900mの約60万㎡の範囲に広がっています。北側には広瀬川、南側には名取川が流れ、その合流点から約1.5km、仙台湾までは6kmほどという立地から、河川や海洋の交通路を強く意識した場所につくられた遺跡といえます。また、Ⅱ期官衙の時代には付属寺院として郡山廃寺が造営されました。
南上空から見た郡山遺跡の写真

 Ⅰ期官衙は東西約300m、南北600m以上の範囲に中枢部、倉庫群、工房群、竪穴群などが名取川と広瀬川の合流点を正面にして建てられており、材木塀や板塀で区画されています。中枢部は東西約120m、南北約92mの一本柱列もしくは板塀と、この塀に密着するように建てられた建物と中央の広場状空閑地とによって構成されています。Ⅰ期官衙の時期は7世紀中頃から末頃と考えられています。
Ⅰ期官衙中枢部の建物写真Ⅰ期官衙から出土した畿内の土器写真

Ⅰ・Ⅱ期官衙遺構模式図Ⅱ期官衙の材木塀と南門写真 Ⅱ期官衙はⅠ期官衙を取り壊し、建物の基準を真北方向に変えて新たに造営されました。その南側には付属寺院である郡山廃寺が造られ、その周囲にもいくつかの建物群が存在します。藤原京遷都の持統8年(694)年頃、都である藤原京(奈良県橿原市)をモデルに造営したものと推定されており、1辺が四町(428m)の範囲を、クリ材を立て並べた材木塀で囲み、外側には大溝を巡らせ、さらにその外側50mにも外溝を巡らせています。Ⅰ期に中枢部があった場所と一部重なる内部の中央南寄りには政庁があり、中心建物である正殿の北側には方形の石組池と石敷遺構があります。飛鳥地方に似た構造のものが見られ、蝦夷の服属儀礼に用いられたと推定されています。このⅡ期官衙は、多賀城成立の神亀元年(724)頃に廃絶したと考えられています。南門の柱写真

 郡山廃寺は遺跡の東南部、東西120m程、南北167mの材木列の塀で方形に囲まれたなかにあります。内部では講堂と僧房が見つかっており、講堂の南西には瓦葺きの金堂が、南東には塔があったと推定されています。伽藍配置は多賀城廃寺と共通しており、国府の付属寺院であったと考えられています。

 郡山遺跡や遺跡の北西にある西台畑遺跡、西側にある長町駅東遺跡など同時期の集落からは関東地方の土師器(関東系土器)が見つかっており、Ⅰ・Ⅱ期官衙の造営や維持には関東地方からの移民が多く関わっていたと推定されています。また、畿内産の土師器が出土していることや石組池の存在などは、都があった畿内との強い関連性を示しています。
Ⅱ期官衙石組池の写真Ⅱ期官衙から出土した軒丸瓦の写真

※ 掲載写真は全て仙台市教育委員会から提供されたもので、承諾を得て使用しています。Ⅰ・Ⅱ期官衙遺構模式図は郡山遺跡発掘調査報告書-総括編(1)・(2)-(仙台市文化財調査報告書第283集)を参考に当所で作成しました。

(廣谷 和也)


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