7世紀後半の日本では、律令に基づいて中央の権力を集中させる国づくりが進められました。しかし、その支配は東北地方北部までは及びませんでした。この地域の人々は農業を中心とした生活を送っていましたが、政府は野蛮な民族という意味をこめてエミシ(蝦夷)と呼び、時には武力を用いて支配しようとしました。その支配の拡大とエミシの抵抗が、古代東北の歴史の大きな流れとなったのです。
多賀城は奈良・平安時代に陸奥国府が置かれ、東北地方各地の城柵の中心でもありました。その遺跡は、塩釜方面から南西に延びる低い丘の先端にあります。ここは、仙台平野を一望できる場所で、塩釜の港にも近く交通の要所でもありました。昭和38年に開始され現在も続いている発掘調査によって、多賀城が造られた年代や施設の移り変わり、役割などが明らかになってきました。