多賀城跡

 神亀(じんき)元年(724)、大野東人(おおののあずまびと)によって創建された奈良・平安時代の陸奥国の国府であり、行政の中心地でした。また、奈良時代には鎮守府も置かれ、軍事の中心でもありました。
 仙台湾や仙台平野を一望できる丘陵上に立地し、一辺が1㎞前後のいびつな四角形に塀で囲い、南・東・西に門が開かれていました(北門は未確認)。ほぼ中央に重要な政務や儀式、宴会などが行われた政庁があり、城内の各所に実際の行政事務を行う役所や兵士の住居などが配置されていました。
 政庁は東西103m、南北116mの長方形に築地塀を巡らせ、内部に正殿、脇殿、後殿、楼などを計画的に配置していました。発掘調査の結果、政庁には、大野東人の創建(第Ⅰ期)、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)の藤原朝狩(ふじわらのあさかり)による大改修(第Ⅱ期)、宝亀(ほうき)11年(780)の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱による焼き討ちからの復旧(第Ⅲ期)、貞観(じょうがん)11年(869)の陸奥国大地震からの復興(第Ⅳ期)の4時期の変遷があったことがわかりました。第Ⅰ・Ⅱ期は奈良時代、第Ⅲ・Ⅳ期は平安時代で、終末は11世紀中頃と推定されています。
 なお、こういった変遷は城内各地の発掘調査でも確かめられており、多賀城全体を考える上でも基本となっています。

第Ⅰ期政庁跡のイメージ図第Ⅱ期政庁跡のイメージ図第Ⅲ期政庁跡のイメージ図第Ⅳ期政庁跡のイメージ図

 

城内の様子を示した模式図

 実務を行う役所は、大畑地区、城前(じょうまえ)地区、作貫(さっかん)地区、六月坂地区、金堀地区、五万崎地区にあり、多くが第Ⅲ期に成立したり再整備されたりしていることから、平安時代に体制が充実したことがわかります。
 政庁・南門間は大規模に造成された直線的な道路で結ばれており、多賀城内のメインストリートでした。平安時代には大規模に拡幅されるとともに城外に延長されました。一方、西門・東門間の道路は政庁の北側をとおる尾根上に造られており、五万崎・金堀・六月坂・大畑地区の役所を結んでいます。東門からは塩釜湾に面した国府の港に通じていたと推定されています。
 多賀城を囲む塀は築地(ついじ)塀と材木塀です。いずれも高さ4~5mほどであり、築地塀は丘陵上に、材木塀は沖積地に造られています。築地塀は土を突き固めて造った土塀で、屋根がかけられていました。南辺築地塀の傍から大垣(おおがき)と墨書された土器が発見され、都と同様に多賀城でも大垣と呼ばれていたことがわかりました。材木塀は材木を密接して立て並べた塀です。
 多賀城内からは瓦や土器を始め、様々な遺物が発見されています。政庁の建物や門などの重要な建物は瓦葺きで、Ⅰ期の瓦は大崎平野周辺で焼かれ、Ⅱ期以降は多賀城の近くで焼かれています。土器は土師器や須恵器が多く、他に高級品である灰釉陶器、緑釉陶器、中国から輸入された青磁や白磁などがあります。大部分が食器ですが、まじないに使われた土器もありました。
 この他、役人が使った硯、紙(漆紙)、木札(木簡)、ナイフなどの文房具や占いに使った骨、まじないに使ったかたしろなどが発見されています。
 多賀城跡の周辺には、城外の南東の丘陵上に付属寺院である多賀城廃寺があり、南~西の沖積地には道路によって地割りされた市街地が広がっていました。東側の丘陵上の西沢遺跡や多賀城廃寺周辺の高崎遺跡にも多くの人々が暮らしており、多賀城跡を中心とした都市が形成されていました。

外郭南辺築地塀と付近から出土した「大垣」墨書土器外郭西辺の材木塀

 

第Ⅰ期の軒瓦第Ⅱ期の軒瓦第Ⅲ期の軒瓦多賀城跡で使用された高級な食器

 

多賀城跡で使用された宴会用の土器